【心の声に耳を傾ける】
メディテーションのお陰で、最近は周りの意見に惑わされる事が少なくなったように思う。言い換えれば、物事に関して自分が本当はどう思っているのか、感じているのかという事が以前よりも自然と気がつく事ができるようになった。
何を隠そう、以前はモノゴトの良し悪しの評価に鈍感だったと言わざるを得ない。何が美味しい、綺麗、素晴らしいと思ったのか、その差異を言語化しないとわかったことにはならないと思っていたからだ。しかし今回の話のアプローチは全く逆である。そう言った、御託を並べずとも良し悪しを判断する方法があるという事だ。
どちらがホンモノ?
自宅にテレビを持っていないので、実家に帰るときは家族と一緒に観ることもある。今年、正月に帰った時には格付けチェックを家族で観た。自然とみんなでワイワイ、あっちがホンモノだ、そうじゃないこっちだ、とやりあう事になった。
この番組、食べ物に味に関しては実際に味わうことはできないが、高級バイオリンと普通のバイオリンの違いや、素人とプロの演奏、本物の盆栽とお菓子の盆栽の違いなどは、お茶の間のみんなで推測することができる。
我が家ではそれらの問題において、父と自分の意見が真っ向から対立し、残りの家族がその結果を見守るという構図になった。
結果発表の前に散々違いについて豪語する父。こちらも負けじと反論する。結果発表までお互いもう後には引けない。
しかし、自分の選択に確信に近いものがあった。目を閉じて、言葉での説明にこだわらずに純粋に心に響く方に集中すると、それだけ明らかに違いがあったのだ。最終的には音楽の問題において、この問題がわからない人間は音楽のことをまるでわかってないとまで家族の前で大見得を切った。
結果、どちらも自分が正解した。
何故父は間違ったのだろうか?彼は考えすぎていた。バイオリンのぎこちない音や、濃淡のない和楽器の演奏、奇をてらったような盆栽の大胆な構図が、逆に本物なのだと錯覚したのだという。
人は、探りに入ると心を置き去りにする事がよくある。周りの二次的な情報から、左脳的に考え、本来の自分の気持ち、すなわち心に聞くことを忘れてしまう。間違ったら恥ずかしいとか、あの人がそう言ってるから、とか、そういう邪(よこしま)な気持ちが心を曇らせる。
ちなみにこの番組、Gacktが個人連勝55回がやらせでは無いかとの疑惑があるが、アーティストはそもそも普段から感性を大切にし、ちょっとした違和感に気づく努力を毎日のように行なっているはずである。ましてや問題の大半が極端な比較で、出題傾向も毎回似通ったものをなので、あながち難しいことでは無いのかもしれないと思うようになった。
心が濁った時
もう一つ、こんな話がある。先日、がチョコをもらった時、何気なく、六個中二つが美味しく感じられ、残りはカカオの香りが少ない気がした。そのことを告げると、その通りだった。選んだ2つは価格が2.5倍もするチョコを使っていたらしい。相手はは驚いたようだったが、自分では心が勝手に語りかけてきたことなので妙に納得した。
次に、彼女の方から次に食べるチョコの中に何が入っていてるからを当てるように言われた。
最初にズバリ、チョコの違いを言い当てたので気を良くしていたので次も当てて驚かせてやろう、という考えた。
ほんのりお酒っぽい味がしたので、ふとキッチンに目をやると、アニスのリキュールが置いてあった。ははーん。あれに間違い無い。置きっ放しにしているなんて馬鹿だなぁと思った。そう解答したところ、不正解だった。
最初にチョコを当てた要領でしっかり味わっていれば、戸棚の奥にあったカルーアだとわかったはずなのに、当てたいと思うあまり、心に聞くことを忘れ、先入観によって考えを決定していたのだ。これほど分かりやすく心のありようについて体験した事が面白かったので、ここに記録しておこうと思う。
普段、モノゴトをキチンと見ているだろうか
最後に余談にはなるが、現代美術の展示に行った時に気がついたこと。作品を見る前からキャプションを熟読している鑑賞者が少なからずいる。なんともったいないことか。他人からのインプットを頭に入れる前に、まずは自分の心がどう感じたのかを問うように心がけていかないと、自分の心との距離はどんどん離れて行くのでは無いだろうか。心は多分、いつも自身の答えを知っている。それが見えないだけなのだ。
まとめ
人はほとんどのことに対して知らず知らずのうちになんらかのバイアスを受けている。考えや気持ちや感情は簡単に湾曲され、心が本当に言っていることと違った解釈をしてしまう。見えているのに見えていない状態を抜け出すには、心の声に素直を耳を傾けることだ。